ホーム > 天満の地名の由来 | 自律神経症状の早期改善なら、大阪市北区の漢方式鍼灸院「大阪市てんま吉祥堂」
「大阪天満かわかみ吉祥堂」が所在する、「天満」についてご案内させていただきます。
大阪府の中心地であるJR大阪駅から1駅で、歩いても15~20分以内の場所に位置します「天満」、NHKの連続テレビ小説の「ちりとてん」「ごちそうさん」の舞台にもなり、ご存知の方が多いかもしれません。また、天満には、日本一長い「天神橋筋商店街」や、上方落語の寄席「天満天神繁昌亭」などがあり、生活に便利で、とても活気のある街です。
商店街写真
天満天神繁昌亭写真
天満には、天神さんで親しまれている大阪天満(てんまん)宮が所在しています。天満宮は、学問の神様である菅原道真公(845~903)を祭神として祀っている神社です。天満の地名の由来は、道真公の生涯と関わりがあります。
天満宮写真
道真は、宇多天皇の信任厚く、様々な政治的改革を断行してきた、優秀な貴族でした。その一方で、国史や和歌の編纂、書にも優れているなど、類まれなる才能の持ち主でした。
ところが、時の左大臣・藤原時平の策略にはまり、天皇の廃位を画策したという冤罪によって、昌泰4(901)年、大宰権師(だざいごんそつ)として九州に左遷されてしまいます。その2年後の延喜3(903)年に、道真は59歳で無念の生涯を閉じました。
道真の怨念が天皇、藤原一門に襲いかかりました。まず、藤原時平が39歳で亡くなり、醍醐天皇の皇太子が21歳で亡くなり、皇太孫も5歳で亡くなりました。そして天変地異も起こり、干ばつに見舞われ、雨乞いの話し合いをしていた貴族達に雷が襲いかかり、かろうじて助かった者のたちには、雷雲に乗った菅原道真の姿が見えたといいます。
清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫をはじめ、朝廷要人に多くの死傷者が出たのを目の当たりにした醍醐天皇は恐怖におびえ病に伏し、3ヶ月後に崩御しました。これらの災いは、落雷によってたくさんの人々が死んだことから、道真の祟りは雷の神である天神(火雷神)と関連付けて考えられるようになります。
やがて、もともと火雷天神が祭られていた京都の北野、および道真が生涯を終えた太宰府に道真の祟りを鎮めるための慰霊の社が建立され、それぞれ北野天満宮、太宰府天満宮となります。その後、防府天満宮、大阪天満宮など天神様を祀る神社が、全国各地に建立されました。「天満宮」の名は、道真の死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」に由来するとされ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」イメージがそこに込められているそうです。
天神は「国津神」に対する「天津神」の意味でしたが、道真の存在感が大きいために、道真の神霊を祀った天満天神を指すようになりました。
もともと道真の祟りを鎮めるために建てられたとされている「天満宮」ですが、その一方で、道真は大宰府に流されても、なお、朝廷の平穏、国家の安泰を祈り続けていた、という説も伝えられています。現在では、「天満宮」は、道真の学問に秀でた才能から、「学問の神様」を祀る神社として広く認知されるようになりました。
以上、「天満」の地名の由来として、菅原道真公の生涯が関係していることを、お話をさせていただきました。